今日は朝からこの本を一冊読みました。
評論家、内田樹と観世流家元、観世清和との共著です。
自分の家に能の稽古場まで作ったという内田樹。
自分の経験からものを言っているので興味深かったです。
なんだかわけがわからなくなり、朦朧とした状態で舞った時が一番よかったとか。
そんなもんかもしれません。
なにもかも計算づくでうまくいくもんじゃないしね。
それが憑依ということなのかも…。
観世清和の話で面白かったのは、アドリブなしの世界についてです。
能では興に乗じて舞うということは絶対に許されないそうな。
歌舞伎が外へ力を向かわせるのに対して、能は内へ気持ちを封じ込めていく芸だそうです。
死者の魂を鎮めるというのが、主な目的です。
土台からどれだけマイナスしても、残る豊かなものだけを見つめる。
舞わない、謡わない。
それで作品の世界を成立させる。
すごい話です。
指揮者も誰もいないのに、8人の地謡が一斉に声を出す。
音の高さも、間も全て何も相談せずにつくりあげていくのです。
こんなに怖ろしい芸能があるのかな。
文楽も似たようなもんかも…。
先日読んだ『仏果を得ず』という三浦しをんの小説にも似たようなシーンが出てきました。
顔と右手を使う主遣い、左手を動かす左遣い、そして足遣い。
3人が一つの人形を生きているかのように動かすのです。
師匠は内弟子にあまり芸を教えないそうです。
身体的に同調し、師匠が何を考えているのかわからないようでは、呼吸があわないのだとか。
プロは地獄をみて苦しまないといけない。
身体で覚える。
あらゆる芸事は同じですね。
落語にも十分に通じる内容でした。
今日は一冊読んで、あとはぼんやり。
それでも一席、お稽古しました。
35分かかったよ。
『宿屋の仇討ち』です。
今度、久しぶりにやろうかな。